2018年2月11日。この日を生涯忘れない。最愛の写真家、竹沢うるま様がホームに来た日。
来ることになってはいるが、本当に、あの日本橋公会堂の会議室に写真家、竹沢うるまさんがやってくるのだろうか?
実際に、その場に立っているところを目にするまでは、とても本当とは思えない。
大体これは現実の事なんだろうか。夢なんじゃないか?
あまりにも来て欲しい来て欲しいと思いすぎたがゆえの妄想なんじゃないのか?
。。。あああ、妄想じゃなかった!
私が会員になっている、キヤノンフォトクラブ「東京インフィニティ」は年に何回か、ゲスト講師に写真にまつわる「技術向上セミナー」を講義していただきます。
その2月のゲスト講師として、なんと、わが最愛の写真家「竹沢うるま」先生にお越しいただいたのでした。
- 竹沢うるまさんをご存知ですか?
- 写真家 竹沢うるま作品と私との出会い
- 写真とは何か
- 今、写真に求められているものは表現である。
- その人自身が現れた写真を撮る事が難しい、その理由は。
- 写真は人に見せて完結する
- 練習はしなくていい。雑誌や人の写真を見すぎないこと。では代わりに何を?
- To Be or To Have
- どこにもないのはわかっているのに、いちばん心が動かされる瞬間をずっと探している。
- 僕は待てない人
- 写真は変わる。人は変化していくものだから。
- ゲームとしての写真、表現としての写真、職業としての写真
- 写真も、小説も、絵画も、音楽もみんな同じ。背景にある言葉にできないモヤモヤしたものを表現している。
- 会員の質問への回答
- 例会後の懇親会にも参加していただきました。
- 変化する、うるま様の感じた世界のイメージを目撃し続けたい。
竹沢うるまさんをご存知ですか?
キヤノンの新型フルサイズ一眼レフカメラ、EOS 6Dmk2のプロモーションを担当されています。素晴らしい作品を撮影される気鋭の写真家なんです。
写真家 竹沢うるま作品と私との出会い
私は写真を勉強しはじめて間もない頃、彼の「Buena Vista」というキューバで撮影した作品をまとめた個展を見に行き、そこで出会った見た事のない表現に衝撃を受け、その時目に焼き付いた残像が頭の中をグルグル回り続けてどうにも離れず、
「ああ、だめだ、もう一回見たい。。!」
と渇望したのですが、その時はもう個展は終了しており、
「どうしよう。。」
「そうだ、写真集を買おう!」
となったんです。
まあ、写真を趣味にしてる人なら写真集を買うのは別に特別な事じゃないと思いますが、その頃私、本はなるべく買わないようにしていたんです。
自分の空間を占有されるのが嫌だったから。
だから極力買わないようにして、図書館の本を活用し、万が一買ったとしてもなるべく早く手放す。
ということを自分に課していました。
でも、あの、米国と国交回復前のキューバを独自の目線と手法で切り取った「Buena Vista」の世界をどうしてももう一度味わいたくて、自分の中の禁を犯して買っちゃったんですね、写真集「Buena Vista」を。
一度こじ開けられた財布の紐はゆるみにゆるんでしまい、出版されている著作、新作全て入手することになりました。
全部見てみたかったからね、うるま様の作り出した世界を。
今回のテーマとはズレますが、もし、この「頭の中でぐるぐる」現象が起きたら、それはあなたの天命というか、他の人とは違うユニークな強み、本質的に好きなもの、なので、ぐるぐるを大切にし、何も考えずに追求し続けた方がいいと思います。それはあなたの幸福を保証します。
ぐるぐる中に、真似して日本橋で撮った写真。
そういう存在の方が、言わば私の「ホーム」であり日常の一こまであるフォトクラブの会合の場、中央区立の公共施設「日本橋公会堂」の会議室にやって来ることの意味、感覚、私の心の想い、なんとなく感じていただけるでしょうか。
うるま様は風のように日本橋公会堂に現れて、「技術向上セミナー」枠での登壇ではあるものの技術向上に留まらない、人生の本質に切り込む話を我々にたっぷり聞かせてくれたのでした。
写真とは何か
。。。のっけから結論的な。
うるま様いわく、
写真は考えて撮るものではない。
写真は内面の発露。
写真は上手い下手ではない。
写真は向上するものではない。
写真は変化する物である。形が変わるものである。
だから、写真を撮る上で、自分自身の内面を育てて行く必要がある。それこそが写真の全てと言ってもいい。
写真とは撮った人がどう世界を感じているか、どう世界を見ているかである。
写真を撮っていく上で感受性を育てていく必要がある。
自分が見ている世界のイメージを形にするのが写真。
今、写真に求められているものは表現である。
何かに自分が出会って、自分の中で何かが起こった。それを記録するのが写真。
重要なのはそこに自分が現れているか、である。ステートメントと言い換えてもいい。
出来上がった作品がその人自身、その人の内面が現れていればいい。
ただ、実現は難しいんですけどね。
その人自身が現れた写真を撮る事が難しい、その理由は。
自分が感じていることを感じとれていない、から。自分自身にも見えない部分があるから。
特にこういった都会では自分を見失いやすい。
例えば、あるビルが存在しており、誰かが言う「このビルは高い」という言葉をまず耳にする。その後、実際にそのビルを見る。その時、自分の本心では「あ、意外に低いな」と感じたとしても、事前に「高い」という情報が刷り込まれているので、素直な感情が覆い隠されてしまう。事前の刷り込みのために世界の見え方が変わってしまう。
そういうこと。
写真は人に見せて完結する
しかし、撮る時に人に見せるために撮ろう とするのはだめです。
その写真は「人のための写真」になってしまうから。
極力意識せずに、極力自分の内面、自分が見たい写真を撮るようにすること。写真はレンズを通した世界であると理解した方がいい。
写真は現実を切り取るツールであるが、現実を映すとつまらなくなる。
練習はしなくていい。雑誌や人の写真を見すぎないこと。では代わりに何を?
自分が経験したり、体験したりしたことの積み重ねにより心の動きが生まれる。
→後述します。
To Be or To Have
哲学者鈴木大拙の言葉。
To have は西洋的な考え方で、もし、そこに美しい花があったら、そこから持って帰って花瓶に挿して愛でるのがTo have。
To beは東洋の考え方で、その美しい花はそこに存在するから美しい、とする。頭で考えたり、技術で考えるというのは、この西洋的なTo haveの考え方だと思う。
自分で出会った世界をそのまま映すのがTo be。
どこにもないのはわかっているのに、いちばん心が動かされる瞬間をずっと探している。
多くの国を旅してきて、いちばん心が動かされる瞬間をずっと探して来たが、いまだにみつかっていない。
どこにもないのはわかってるんですけどね(笑
多分、僕が死ぬ時にわかるのかもしれない。その時に一つの形として完結して行くんじゃないかな。
今は竹沢うるまとして心が動かされる「過程」を記録しているんだと思う。
僕は待てない人
人に待たされるのもキライ。
撮影する時もどんどん移動する。
移動して、出会いの絶対数を増やす。
大体1日に5〜6,000枚撮影するが、ひとつ所に留まって、予想して、待って撮影することはない。
留まっていたことで得られたであろう結果より、移動した先での偶然の出会いの方を選ぶ。
動き続けたことにより、このような雪の光景に出会った。
写真は変わる。人は変化していくものだから。
人は変わる。
ただし写真も人も激変はしない。
よほどの外的要因もないのに、人は自分から急に変わったりはしない。普通はゆっくりと変わっていく。
ゲームとしての写真、表現としての写真、職業としての写真
職業としての写真
写真は自分が感じた事を残したいから撮るのだが、職業でやっていると、苦しい事もある。
名を成した写真家の姿を見ていても、ある到達地点に達した人が次にどこに向かうか、というのは非常に難しいこと。
次の到達地点は同じ高さではダメだし、下ではもちろんダメだし、少し上でもダメで、すごく上の別の到達地点に行かないといけない。
職業で写真を撮って行く以上、自分がどこかに向かっていている姿勢を見せないといけないと思う。
まさに果ての、その先を見たい。
ゲームとしての写真
雑誌や、人の写真を余り見すぎない方がいいです。
写真を見すぎると刷り込まれてしまうから。
雑誌などで見た写真を真似して、それと同じ様に撮る、という写真の楽しみ方もあります。
ただ、それはゲームになってしまう。
それは表現ではない。
そして、真似はオリジナルを超えられない。
表現としての写真
自分の内面を見つめる「表現」は苦しいけれど、より長く楽しむことができる。
そうやって苦しんでいると、結実することもあると思います。いや、結実しないんですけど(笑
写真も、小説も、絵画も、音楽もみんな同じ。背景にある言葉にできないモヤモヤしたものを表現している。
それが芸術と呼ばれるもの。
ただ、写真が他の芸術とふたつだけ違うことがある。
「テクノロジーであること。」
「ゼロから生み出せないこと。」
全て、ひとことでは表せない、人間の内面の何かを表している。
一言で言ってしまえるなら、小説というものは必要ない。
伝えるために、それだけの文字数を必要とし、小説の形をとる必要があった。
写真家の仕事も同じ。現実の世界を切り取り、人間の内面の何かをイメージに置き換える。
写真の練習は必要ない。考えるのではなく、感じとる。
小説を読んだり、音楽を聞いたりした上で感じたことが大切だと思います。
自分も20代の頃はずいぶん小説を読んだ。小説を読んで、この本はいったい何を表そうとしているのか?と考えたりしていた。
ちなみに、影響を受けた作家として、
- 池澤夏樹
- 開高健
を挙げてくれました。
写真の背景にあるものは言葉に置き換えることのできないモヤモヤしたものなので、極力、タイトル、ステートメント、キャプションなどはつけたくない。
ただ、職業、仕事として写真を提供するのであれば、多くの人に見てもらうための設計をする必要がある。
その時、「モヤモヤ」つまり心の形、心の流れを捉える言葉を見つけてタイトル、ステートメント、キャプションにする必要がある。
会員の質問への回答
どうやったら、紗がかかったような、モヤモヤしたその感じが出せるのか?
常に自分の写真は否定している。
一時的に気に入る写真はあるけど、一時的。
好きな写真はひとつだけ。
この、ジャイアントケルプの写真。
水中写真や、Walkabout、BuenaVista、コルラなど、今日見せた写真はある意味、20代、30代の自分の写真。
これからは40代の自分の写真を撮って行かなくてはな、と思っている。
ああ、名残惜しいけど、時間が来たので終了。
何度も何度もトークイベントに行っているけど、やはりホームでのトークは特別です。
本当に来てくれたうるま様、ありがとう!
この世の全てに感謝。
例会後の懇親会にも参加していただきました。
なんか、本当にすみません!
鍋の面倒もうるま様にやっていただきました。
手慣れてる。。上手い。
でも、正直、このときの鍋の味が美味しかったのか不味かったのか何も覚えていない。
うるま様の吐き出す言葉を必死に処理するだけで私の脳内のメモリもCPUもグラフィックボードもいっぱいいっぱい。全リソースを集中していたんだと思います。
こんな写真撮ってても、ほんとにピント重要じゃないのかな。。。
この時にうるま様が語っていた、今の社会を急激に大きく変えた3大要素の話、もう少し聞きたかったなあ。
その3つっていうのは、「宗教(キリスト教)」、「資本主義」、強いて言うならもうひとつ「電気」。
ああ、名残惜しいな。
社会や世界に存在する様々な対象物について、うるま様の感じるところを聞いてみたいなあ。。
今後も発表されていくであろう、写真で見て感じとれ、ってことかな。
懇親会の席でも、うるま様はインフィニティのメンバーをとりこにして行っていました。
男も女も年齢も関係なく、うるま様に引き寄せられてました。みんなの紅潮した表情。。。
うるま様はカッコいいけど、圧倒的な魅力を理解するのに性別は関係ないですよね。
人間は芸術に引きよせられていくと思います。芸術とは人間の言葉にできない本質だから。
これが真の芸術家の姿なんじゃないのかしら。
私はITが進んだ先、資本主義が進んだ先、宗教が進んだ先で、そこにパンドラの匣の底に取り残されていた希望のように、人類は芸術を見つけると思います。
うるま様が東京Infinityに来てくれる世界で生きていることを私の神様に感謝します。
変化する、うるま様の感じた世界のイメージを目撃し続けたい。
唐突ですが、私、一昨年急逝したミュージシャンのプリンスが大好きだったんです。彼が57歳で死んだとき、「ああ、あのような偉大で才能豊かで素晴らしい、これからも世界を幸福で満たせていくはずだった人が57歳などという年齢で死んでしまうんだから、私みたいな何にも持ってないゴミみたいなものが、長生きなどしたら世の中の無駄だな。適当なところで死ななきゃな。」と本気で思ってたんです。
でも、うるま様が
「70歳になっても写真を撮っていたいと思った。そのために行動して、旅に出た」
と語るのを聞いて、
「。。。そうなのか!70になった時のうるま様の写真、絶対見たいな!長生きしなきゃ!」
と思い直したんです。
うるまさんと呼んでもいいんだけど、この「The Songlines」という1021日、103ヶ国を旅した時の旅行記を読んだあと、いや、読んでいる最中から、
「こ、この人は写真家なのに、文章が専門じゃないのに、まるで私小説作家のように、こんなところまでさらけ出して自己開示できるなんてスゲー!」
「なんという人なのだ!」
と驚愕し、じわじわと尊敬の念が湧いて来て、それ以来、自分の中では「うるま様」なんです。
今思えば、写真で自分の全てを開示してきているから、言葉での開示なんて、別にどうってことないんでしょうね。
この本、本当に名作なので、日本語が読める人は全員読んで欲しい。
そしてその約3年の間、旅していた時の旅の記録の写真集がこちら、「Walkabout」
合わせて読めば、単体で読む/見るより圧倒的に世界が広がり、楽しめる。
是非、2冊同時に手にして欲しいです。
さらにこれ、私の頭の中をぐるぐる回ったキューバの写真集「Buena Vista」。
私、毎年フィデル・カストロ議長の命日にはジャージを着用して議長を悼むことにしてるんです。
なぜなら、彼がいなかったら、あのキューバの光景、空気、カルチャー、人々の暮らしは存在しておらず、この写真集もあの写真展もなかったと思うから。
この作品が生み出されていなければ、あの恵比寿の写真展会場でうるま作品に出会うこともなく、今味わってる圧倒的な幸福感も持つ事なかったからね。
長くなってごめんなさい。
うるま様の言葉は珠玉すぎて、切り取ってまるめることができなかった。
けど、あえて最後にまとめてみます。
- 写真は自分の内面を形にするものだから、写真を撮るためには自分の内面を育てる必要がある。
- 現代社会のノイズ、情報に触れすぎず、自分の中から湧き出る「感じる」をきちんと感じる事。
- 小説、音楽、絵画など写真以外の芸術表現に多く触れ、その表すところを考えてみる。
- 技術は必要じゃないけど、やっぱり必要。
今回の出来事をブログにする上での感想。
- EOS 5Dmk4はやっぱりすごくイイ!
- Tamronの24-70 F2.8もすごくイイ
- 望遠レンズも必要だな。
私は表現としての写真を楽しみたいです。苦しくても。ゲーム、あんまり好きじゃない。